徳尼公伝説⑤~徳尼公終焉の地 酒田宮野浦

下の図は、徳尼公が庵を結んだといわれる、向う酒田の飯森山付近を拡大した図になります。

酒田市史上巻には以下のように飯森山と言われる付近に泉流寺林という地名があったと言われ、徳尼公が終の棲家にしたのがこのあたりとされています。

「庄内物語」附録
百六・七十年以前は今の酒田は最上川の南、飯盛山の西に有り、今泉流寺林などといふ処知る人多かるべし。今の酒田は僅か家居有りしが、次第に川を越て北に移り住ぬと語りし兵次郎は正徳年中に百六十六歳なりとかや。

そして、小野忍氏が平成3年6月1日発行の『館報こうきゅう79号』に掲載された内容によると、京田川と旧赤川放水路との合流付近から板材が縦につきささった状態で発見され、板塀か井戸枠の一部と思われることや、京田川左岸で出羽大橋の南端から上流約250mのところから五輪塔が出土したことが記されています。

五輪塔は平安時代のお墓であり、このあたりに集落があったことを示すものとし、錆田という地名は、最上川の流路変更で古い集落が次第にさびれてきたことに由来する地名とされています。


また、昭和41年に徳尼公の750年の大遠忌を行った時に、三十六人衆の三丁目恵吉氏が「昭和四十一年四月十五日 徳尼公七百五十年大遠忌 大般若法要会と建碑 其の他」としてまとめた資料があります。この資料は、酒田市立図書館にも所蔵されています。

この資料については、改めて紹介したいと思いますが、徳尼公のお墓に触れた部分だけを要約しながら紹介させていただきます。

かつて飯森山北方に、人々が近づかない小高い丘があり、そこに大きな榎の木が茂っていました。この丘が徳尼公の墓地と伝えられています。
昭和初期に京田川の改修工事が行われ、丘の半分が川に削られ、多くの遺物(御椀や什器等)が出土しましたが、現在は散逸して残っていません。昭和13年には榎の大木が伐採され、墓石が2基見つかりました。1つは尼公堂のそばに、もう1つは宮野浦の佐藤氏宅の庭に移されました。
その後、最上川の洪水によって地域が水没し、墓地の土地が堤防の補修に使われたため、丘は完全に消失。周辺は開拓されて田んぼとなり、個人の所有地になりました。
三十六人衆の粕谷源七氏や本間新十郎氏らは「墓地跡」の標識を建てようとしましたが、交渉を託された田桑氏が亡くなり、計画は中断されたままです。なお、佐藤氏宅に移されていた墓石は昭和39年に再び尼公堂脇へ戻されました。
なお、榎の大木の根の一部は現在も尼公堂の中にあり、次のように書かれています。

「この木の根は、徳尼公の墓のそば(西田川郡宮ノ浦地域)にあった榎の大樹の根の一部です。5人が抱えるほどの太さで、枝は東西南北に20間(約36メートル)以上広がり、まるで樹齢1,000年を思わせる姿でした。」

出張者:森敏雄、粕谷源七、本間新十郎

案内人:宮ノ浦区長」


このように、当時の三十六人衆の人たちは、徳尼公のお墓の場所を特定していたようですが、具体的な場所を示す資料が現在残っていないことが残念です。


▼ 欅の大木の根の一部と説明書き

▼ 飯森山遠景 かつてこの辺りに集落があったと言われる

徳尼公と酒田三十六人衆

このホームページは、酒田に伝わる徳尼公伝説と、江戸時代に廻船問屋として地元の経済を発展させた酒田三十六人衆について、現在の活動と合わせて紹介するものです。

0コメント

  • 1000 / 1000