徳尼公の逃亡と羽黒山麓妹沢について2025.04.05 14:581 平泉からの逃亡奥州藤原氏と徳尼公の関係については、以前に取り上げた徳尼公伝説①②などでも触れたところですが、平泉からの逃亡については図1にあるように、平泉から秋田の久保田、羽黒山の妹沢に逃れ最終的に酒田の宮野浦に逃れて来たと伝えられています。この図は、平成5年にNHK大河ドラ...
徳尼公伝説④~飽海郡誌で取り上げられている徳尼公と三十六人衆2025.02.02 13:18飽海郡誌は郷土史家である上の日枝神社宮司の齋藤美澄氏(1857~1915)によって書かれたもので、大正12年に刊行されました。10巻からなっていますが、徳尼公や三十六人衆の記述は主に「巻之三」に取り上げられています。以下に徳尼公および三十六人衆について主に記述のあるものを一つずつ...
徳尼公伝説③~泉流遺芳2024.10.29 04:55現在、残念ながら泉流寺には寺の起こりなどを示した文書などは残っていないとのことです。しかし、大正8年に当時の住職であった上林鐵山氏が執筆した「泉流遺芳」という書物があります。内容は泉流寺に伝わっている文書や伝えられてきた話などをもとに、まとめられたものと思われます。「泉流遺芳」に...
徳尼公伝説②~酒田市史に記載されている徳尼公伝説2024.07.05 10:03酒田市史(昭和62年発行)上巻第2章『湊町酒田の面目』の第1節『問丸の来住』に酒田発祥伝説が述べられています。その記述では、「平泉藤原氏が没落した際に、遺臣三十六騎が、藤原秀衡の妹、徳の前あるいは秀衡の後室泉の方と呼ばれた女性のおともをして、まずは、秋田、久保田に落ちつき、秀衡・...
平泉教育委員会歴史教室2024.03.16 23:47令和6年3月2日(土)に平泉町、平泉教育委員会、学習交流施設エピカの主催で「令和5度平泉町内遺跡発掘調査報告会」が開催されました。令和5年6月29日に酒田市と平泉町が文化交流協定を結んだことから、この報告会に於いて、記念講座を開催することとなりました。その講座に講師として依頼され...
徳尼公伝説①~奥州藤原氏の歴史と滅亡2023.12.27 15:07今回から数回にわたり、酒田に伝わる徳尼公伝説を紹介します。第1回目は、徳尼公の出身一族である「奥州藤原氏」について紹介します。奥州藤原氏の歴史と滅亡奥州藤原氏は、前九年、後三年の役に勝利した藤原清衡が1083年に平泉に居住し、基衡、秀衡の3代にわたり、当時、陸奥の国、出羽の国と呼...
第78回山形県総合美術展 入選!2023.10.14 06:00酒田在住の女性から、はがきをいただきました。この度、ご自身の描いた徳尼公の絵画が、第78回総合美術展で入選になったそうです。徳尼公と三十六人の家臣を描いていて、徳尼公の姿は、泉流寺に安置されている徳尼公の御像を参考にしたのでしょうか、よく似たやさしい面立ちになっています。
酒田市と平泉町の文化交流協定について2023.10.12 05:40① 文化交流協定の締結令和5年6月29日に酒田市と平泉町は「奥州藤原氏が紡いだ酒田市・平泉町の絆を未来につなぐ文化交流協定」を結びました。この協定を結ぶ理由として、酒田市は「藤原三代秀衡の妹と言われている徳尼公とその家臣の三十六人衆の縁をきっかけに、平泉町で開催される春の藤原まつ...
羽黒山にある徳尼公御像と位牌①2023.07.27 05:33羽黒山と徳尼公の関係徳尼公の終焉の地は酒田であったわけですが、酒田に落ち着く前は、羽黒山麓の立谷沢の妹沢(地元の人はいもさわと呼んでいた)という所に草庵を結び、しばらくの間隠れ住んだと言われています。徳尼公が庄内地方に入ったのは、一族の田川太郎実房(たねふさ)に頼ろうとしたからだ...
酒田まつりについて③2023.07.04 16:29 山王祭りへの三十六人衆の関わり山王祭りの頭屋(とうや)は裕福な家が受け持ちましたが、三十六人衆はその頭屋を選定する際の立会人になっていました。また、大祭当日には祭礼の上座に座り、渡御行列(とぎょぎょうれつ)にも参加していたことから、祭りの中心的な存在であったことが分か...
酒田まつりについて②2023.07.04 16:26 山王祭りの賑わいかつての山王祭りは、渡御行列(とぎょぎょうれつ)と神宿(とや)の華やかさが特徴的だったといわれています。行列では高さ20メートルもある山鉾が引かれ、本町の廻船問屋が家伝の屏風を玄関に飾り、祭りに花を添えました。この大規模な行列は、当時の豪商であった本間...