羽黒山にある徳尼公御像と位牌②

御像と御位牌

徳尼公の御像が酒田の泉流寺に安置されていることはこちらの記事で述べましたが、

羽黒山手向にある黄金堂にももう一体、徳尼公の像があります。この御像は、一説には鎌倉時代のものとされ、平成17年に鶴岡市の指定文化財に指定されています。また、羽黒山の本堂である三神合祭殿の右側に渡り廊下でつながる形で建立された霊祭殿には、徳尼公の御位牌も祀られています。


日本では江戸時代まで、神様、仏様を分けることなく一緒にお祀りしていました。羽黒山もかつて神仏混合の地であり、現在の三神合祭殿は元々寂光寺という寺でした。そしてそこには御像も御位牌も一緒に祭られていました。しかし、明治時代に入り、明治政府が神道国家をつくるため、神仏分離政策を進めました。これが廃仏毀釈つながり、当時の日本では歴史のある多くの仏像が破壊、焼却されたのです。


このとき、羽黒山の徳尼公像も処分されてしまうはずだったのですが、黄金堂に移され、難を逃れました。


黄金堂には、この像以外にも羽黒山の本堂にあった多くの仏像が廃仏毀釈の難を逃れ安置されており、現在は国の重要文化財に指定されています。時の権力者に従わなければならない立場と、貴重な仏像をどうにかして残そうという思いの中で、仏像を守った人たちの苦労が偲ばれます。


その中でも徳尼公の御像は、出羽三山の羽黒山、湯殿山、月山の三大権現の仏像と並んだ位置に祀られており、霊祭殿にある御位牌は、正面から右隣り二番目の位置に祀られています。


このことから、羽黒山でも、徳尼公は特別に大事にされていたと考えられます。黄金堂の代表の方にお伺いしたところ、やはり、奥州藤原氏とゆかりの方であるからでしょう、というお返事でした。奥州藤原氏が、羽黒山への多大な貢献により敬われていることがよく分かりました。徳尼公がこの地を頼って逃れてきたことにも納得がいきます。


▲黄金堂に安置されている徳尼公御像(黄金堂所蔵)

徳尼公と酒田三十六人衆

このホームページは、酒田に伝わる徳尼公伝説と、江戸時代に廻船問屋として地元の経済を発展させた酒田三十六人衆について、現在の活動と合わせて紹介するものです。

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