羽黒山と徳尼公の関係
徳尼公の終焉の地は酒田であったわけですが、酒田に落ち着く前は、羽黒山麓の立谷沢の妹沢(地元の人はいもさわと呼んでいた)という所に草庵を結び、しばらくの間隠れ住んだと言われています。
徳尼公が庄内地方に入ったのは、一族の田川太郎実房(たねふさ)に頼ろうとしたからだとされています。出羽三山史には、秀衡が田川太郎に奉行を命じ、承安2年(1172年)に巨費を投じて羽黒本社の大修繕を行ったことが記されています。羽黒山は藤原一門の信仰の地だったのです。
妹沢には、かつて、地元の人が「尼公屋敷」と呼んだ場所があり、その近くに経塚※1という遺跡があります。徳尼公はその場所から、毎日、羽黒山に向かい祈っていたと伝えられています。その遺跡から見つかった経石は、現在、酒田市立資料館に保管・展示されています。
状況が一変したのは、建久4年(1193年)のことでした。藤原氏を討とうとする源頼朝が、勝利祈願のため羽黒山に黄金(こがね)堂を寄進したのです。そもそも頼朝から逃れて羽黒山に身を隠していた徳尼公は、源氏の武士が来ることを恐れ、酒田まで遁逃することになりました。
※1経塚:平安時代中期に経典を埋納し小さな盛り土をして保存した塚。経石という小さな石に1つか複数の文字を経典から書いて埋める。極楽往生の祈願、追善供養で用いる。
▲徳尼公の御像が安置されている黄金堂
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