徳尼公伝説④~飽海郡誌で取り上げられている徳尼公と三十六人衆

飽海郡誌は郷土史家である上の日枝神社宮司の齋藤美澄氏(1857~1915)によって書かれたもので、大正12年に刊行されました。10巻からなっていますが、徳尼公や三十六人衆の記述は主に「巻之三」に取り上げられています。

以下に徳尼公および三十六人衆について主に記述のあるものを一つずつ列記し、概略を載せてみました。


①14ページ 萬書集妙 元禄9年(1696)

・三十六人衆の由緒及び三十六人衆の名前が記されている。

・酒田町組には三十六人衆と呼ばれる者がいて、向酒田の地侍が当酒田に移転した後も、三人の年寄、二人の大肝煎によって、明治維新に至るまで町政を執り行っていた。・酒田町組の長人として亀ケ崎城の警護、人馬の配置、公金の取り扱いなど公の仕事を担いながら、商売を行い、名字帯刀を許され、無税地に住んでいた。


②16ページ 野附氏御用留 享保15年(1730)

町奉行への注進書の提出

・三十六人、町年寄、内町長人、同大庄屋、米屋町長人、同大庄屋のそれぞれの名前が記されている。


③18ページ 萬書集妙 宝暦11年(1761)

・町奉行より三十六人の由緒について取り調べがあった。

・それに対し、三十六人衆は奥州秀衡公の妹の従者であり、古来、亀ケ崎城の警護や城内の道具の封印、帯刀をしてきたこと、酒井家以前の最上家の家臣だった者もなく、最上氏以前より、町政を担ってきたものだと、奉行に対し文書を提出した。


④19ページ 酒田町年寄御用留 寛政2年(1790)

三十六人衆役儀並長人役兼帯勤の覚書14項目

・当時の三十六人衆の役割、14項目を表している。


⑤22ページ 酒田泉流寺文書 寛政7年(1795)

泉流寺と三十六人衆と徳尼公の由緒

・泉流寺の開基について、寺社奉行より尋ねられた際提出した文書。

・泉流寺の開基は奥州秀衡の妹で、三十六騎の家臣と共に宮野浦に落ち延び生涯を終えた。

・尼公亡き後、三十六人の家臣は、宮野浦で問屋として生計を立て、当酒田に移ってきても町年寄として町政を担った。

・現在も三十二疋の馬を伝馬町に所有している。

・尼公命日の4月15日には現在も法要も行っており、尼公入寂より600年も続いている。


⑥23ページ 三十六人御触書御用留 寛永4年(1851)

尼公由緒之覚

・三十六人衆が泉流寺、徳尼公の由緒を記したもの。

・泉流寺の開基は平泉から落ち延びた徳尼公であり、尼が引き継いできた泉流庵を海晏寺の和尚が引継ぎ泉流寺となったこと、火災で焼失した御像を再建したこと、徳尼公の守り仏の薬師如来について、宮野浦の下の屋敷跡は泉流寺林と呼ばれていること、嘉永4年現在まで、635年の間、法要が引き継がれていることなど、記載されている。


⑦24ページ 庄内物語附録

・奥州仙台の旅の僧が、泉流寺の徳尼公の位牌を見て、近年仙台で追善供養があり、その位牌の法名が同じだったと驚いた話。

・泉流寺に住んでいた者の言うことには火災にあう前は、徳尼の香合や小袖があったという話。

・百六七十年前は、酒田は最上川の南の飯森山の西にあって、その地は今は泉流寺林と呼ばれている。


⑧25ページ 東永山縁起(慶応2年齋藤彦兵衛壽平撰) 慶應2年(1866) 

・泉流寺の開基、徳尼公は藤原秀衡の後室である泉の方である。

・亡くなったのが建保5年4月15日、87歳であった。

・庵は比丘尼により引き継がれたが、280年ほど経った後、さびれてきた。

・文亀年中に海晏寺の住職だった正全和尚が移り住み洞永山泉流寺となった。

・酒田三十六人衆の由緒は、徳尼公に付き従ってきた侍である。


⑨26ページ 三十六人衆松田家記 明治2年(1869)

・文治5年8月8日、奥州平泉が落城したとき秀衡の妹の徳の前が三十六騎の家来を連れ、秋田久保田の草案に泊まり、髪をおろした。庵に白馬を寄贈しその庵はやがて、白馬寺となった。

・その後親族である、出羽の田川郡司である太郎実房を頼った。月山、湯殿山、羽黒山を信仰し立谷沢の下扉に草庵を結び、藤原一門の戦死者の例を弔い暮らす。

・頼朝が幕府を開き、諸国の霊場に寄進することになり、羽黒山の黄金堂の営繕をするため、鎌倉武士が羽黒山に来るという情報がある。

・徳尼公は、難を逃れるため、三十六人衆と酒田の宮野浦に逃れた。

・建保5年丁丑(ひのとうし)年4月15日德尼公御年90才で入寂した。

・庵の東に埋葬し榎を植えて墓標し、命日ごとに供養し尼公塚と言っていたが、暴風で砂も散ってしまい自然の山となった。そこが飯森山と呼ばれるようになる。

・草庵後は三十六人が保護し比丘尼が後を継いだが、文亀元年に海晏寺の正全和尚が入院し、庵を寺として号を改めて洞永山泉流寺とした。


⑩27ページ 三十六人御触御用帳 明治2年(1869)

・明治政府が三十六人衆の身分について尋ねたことに回答した。

・三十六人衆は藤原秀衡の妹に付き従ってきた武士であった。

・尼公なき後生計を立てるため民間に下って問屋業を営み、大永年間に現在の酒田市に移住し、開墾して住み始めた。

・没落の際、馬を率いて移動したことから、現在も伝馬町という地名が残っている。

・武藤家や上杉家が支配していたころは、戦場にも赴いて軍功を納め多くの褒美をもらった。

・上杉家、最上家の領地であった頃は地侍と呼ばれ、やがて、年寄と呼ばれ町方の政務を取り扱ってきた。

・酒井家が入国の際は、亀ケ崎城の引き渡しの立ち合いもした。

・その後、町奉行から今まで通りの統治の仕方で良いと正式に書状ももらった。


⑪29ページ「東鑑」「平泉志」の資料より

・徳尼公の遺跡は岩城(現在の福島県いわき市付近)にもある。

・羽黒山の大堂は、藤原秀衡が建立したものであり、本堂には秀衡の妹である徳尼子の木造が安置されている。

・秀衡の後妻は泰衡、忠衡を生んだとされる。

・泰衡の子供である万寿は平泉滅亡の際、家臣に守られて、出羽地方に潜伏した可能性が高いとしている。


⑫31ページ 庄内昔雑話 

・酒田町年寄が酒井家より士分の取り立てを申し渡されたが、取立を受けなかった。


⑬32ページ 酒田町年寄二木氏文書 寛永15年(1638)

・町奉行水野市兵衛が三十六人衆について藩に訴訟したところ、町政の運営はこれまで通り三十六人衆が受け持つこととされ、水野市兵衛は更迭され、町奉行は石原孫左衛門になった。


⑭33ページ 酒田町年寄御用留 安永元年(1772)

・行司役の用務について説明したもので、主に人足の手配について記してある。

・御用金の管理についての覚書。


⑮35ページ 酒田町年寄御用留 天明7年(1787)

三十六人衆の仲間に6名の不足が生じたため、新たな人員を選出することの伺い。


⑯37ページ 巡検使覚書 明和6年(1769)

・酒田の町政のしくみを町奉行が巡検使に提出した覚書

・酒田町組には古くから「三十六人衆」と呼ばれる者たちがおり、公用の職務を受け持っていた。その中から3人ずつが1か月ごとの持ち回りで「行事」と呼ばれる役目を担当して、人馬の手配などを行っていた。

徳尼公と酒田三十六人衆

このホームページは、酒田に伝わる徳尼公伝説と、江戸時代に廻船問屋として地元の経済を発展させた酒田三十六人衆について、現在の活動と合わせて紹介するものです。

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