徳尼公伝説③~泉流遺芳

現在、残念ながら泉流寺には寺の起こりなどを示した文書などは残ってい
ないとのことです。

しかし、大正8年に当時の住職であった上林鐵山氏が執筆した「泉流遺芳」という書物があります。内容は泉流寺に伝わっている文書や伝えられてきた話などをもとに、まとめられたものと思われます。

「泉流遺芳」によると、泉流寺の開基は「洞永院殿水庵泉流大禪定尼」という尼僧であり、その人は、平泉をおさめ、都からも東北の鎮守府将軍を任ぜられた藤原秀衡の妹であり、俗称は徳前君と言われたと記されています。

秀衡は鎌倉から追われた義経主従を衣川の館にかくまっていたのですが、秀衡が亡くなった後、秀衡の息子たちは父親の遺言に背いて義経を討ちその首を鎌倉に差し出します。しかし頼朝は、奥州平泉が義経をかくまったことを理由として、大軍をもって奥州平泉を滅ぼしました。その時、徳前君は家臣であった三十六騎に護られ、平泉を後にしました。そして、秋田の久保田まで逃れ、その地の草庵で仏門に入り髪をおろし、この地を自分の佛行発祥の地とします。この地を去るときに草庵の主に白馬を一頭送ったとされており、後にこの草庵に寺院が建立された時に白馬寺と号し、その馬が死んだあとは山門に白馬の像を置いたとされています。

さて、その後徳尼公は、三十六騎の家臣と共に親族に当たる出羽の国の田川郡司太郎實房の元に向かい、立谷沢下扉に住まうこととなりました。そこで草庵を結び、身を潜め、兄・秀衡及び一門の菩提を弔いながら暮らしたとされています。

しかし、鎌倉右大臣となった頼朝が諸国の霊場地に寄進を始めたため羽黒山の黄金堂の営繕も行うこととなりました。鎌倉から修繕奉行として土肥次郎實平が向かっていることを知った徳尼公一行は、什器や宝物を山間に埋め隠し、田川郡砂潟地方宮の浦に移って草庵を結びました。そして、建保五年丁丑の歳四月十五日に八十七才で入寂したとされています。戒名は「洞永院殿水庵泉流大禪定尼」となり、御尊體を庵の東に埋葬し、榎木を植えて墓標としました。この地を尼公塚と呼びましたが、何時ともなく砂に埋もれてしまったと言います。

しかしながら、草庵の跡は三十六人の子孫により保護され、案主は比丘尼によって継承されました。そして、その後二百八十年後に、海晏寺を退院した正全和尚が入庵して庵を寺に改め洞永山泉流寺と号したことにより、徳尼公を開基とし、正全和尚を開山したお寺となったのです。

ここまでが、徳尼公に関わる記述になっています。この後の記述は、開基以降の寺の歴史、その後の三十六人衆について記されていますが、それらの内容は、改めて別項で紹介したいと思います。


▲泉流遺芳 表紙

▲泉流遺芳 奥付

徳尼公と酒田三十六人衆

このホームページは、酒田に伝わる徳尼公伝説と、江戸時代に廻船問屋として地元の経済を発展させた酒田三十六人衆について、現在の活動と合わせて紹介するものです。

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