酒田市史(昭和62年発行)上巻第2章『湊町酒田の面目』の第1節『問丸の来住』に酒田発祥伝説が述べられています。
その記述では、「平泉藤原氏が没落した際に、遺臣三十六騎が、藤原秀衡の妹、徳の前あるいは秀衡の後室泉の方と呼ばれた女性のおともをして、まずは、秋田、久保田に落ちつき、秀衡・泰衡や多くの戦死者の菩提を弔うため、白馬寺で髪をおろして尼になった」こと、「その後、庄内田川太郎の縁をたよって羽黒山近くの立谷沢の妹沢というところで、大いちょうの下に庵を結んで、羽黒山を信仰して日々すごした」こと、「頼朝が羽黒山の霊場修復のためたびたび使者を遣わしたことから、この地をさって袖の浦飯盛山の西のふもとまで落ち延びた」ことなど、出家し酒田に落ち延びるまでの経緯が分かります。また、「泉の方は孫の萬寿丸をつれていたとも伝えられる」とも記されています。
そしてその後、「三十六人は、徳尼公寂後、袖の浦地方の地侍として船問屋を家業とし、自ら長人(おとな)または三十六人衆と称して湊町の町政を担当し」、「大永の頃、向う酒田から当酒田に移転して本町を中心に酒田町組をつくり、向う酒田当時と同じように、三十六人衆が長人となり町政に当った」とされています。
これらの記述は、「三十六人衆御用帳」、「洞永山縁起」、「酒田泉流寺文書」などによるとされています。
▲酒田市史 改訂版 昭和62年発行 酒田市史編纂委員会
▲酒田市史に記載されている徳尼公伝説
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