1 平泉からの逃亡
奥州藤原氏と徳尼公の関係については、以前に取り上げた徳尼公伝説①②などでも触れたところですが、平泉からの逃亡については図1にあるように、平泉から秋田の久保田、羽黒山の妹沢に逃れ最終的に酒田の宮野浦に逃れて来たと伝えられています。
この図は、平成5年にNHK大河ドラマ「炎立つ」の放送に合わせて発刊された「炎立つ国・奥州」で紹介されている徳尼公のたどったとされるルートを参考にしたものです。
2 久保田
泉流遺芳でも紹介しましたが、徳尼公は藤原氏の菩提を弔うため、この久保田の地にある草案で髪をおろし仏門に入ったとされています。そして、この地を去る時に草庵の主に白馬一頭を贈ったとされ、後にこの草庵に寺院が建立された時に、この寺を白馬寺と号し、その馬が死んだあとは山門に白馬の像を置いたとされています。
3 妹沢
徳尼公と三十六人の一行は、羽黒山を目指し、羽黒山麓の立谷沢の妹沢という地に落ち着いたとされています。
徳尼公が庄内地方に入ったのは、一説には、一族の田川太郎実房(たねふさ)に頼ろうとしたといわれています。秀衡はこの田川太郎に奉行を命じ、承安2年(1172)に莫大なお金を投じて羽黒本社を大修造させていることもあり、羽黒山は藤原一門の信仰の地とも言われていたそうです。
妹沢については、糸谷聰氏が調査した内容が※方寸第10号に執筆した「徳尼公隠栖の地立谷沢」に詳しく記述されています。
以下にその内容を簡単に紹介します。
※方寸第10号 平成7年8月5日 酒田古文書同好会発行
【下扉】
下扉村は、江戸時代末期まで存在し、妹沢を含む地域だった。地名の由来として、羽黒本社の木材を寄進したことに由来するという説があるが確証はない。村の創立年代は不明だが、文治年間(1186年)に徳尼公一行が移り住み、家臣たちが農業を営んだことで集落が形成されたと考えられる。
しかし、立谷沢川の度重なる氾濫により耕地が失われ、幕末には10戸余りに減少。明治初期までに住民は周辺の村へ移転し、下扉村は完全に消滅した。
【妹沢】
妹沢は旧立谷沢村(現在の立川町立谷沢地区)に属し、立谷沢川の右岸、工藤沢部落の対岸に位置する。かつて洪水の多い暴れ川だった立谷沢川は、現在では山形県で最もきれいな川とされている。
妹沢には、大きなイチョウの木や杉林があり、徳尼公が草庵を結んだとされる「尼公屋敷」の遺跡が残る。地名は、藤原秀衡の妹・徳尼公がこの地に隠棲したことに由来するとされる。
古い地域の史料には、徳尼公が戦乱を逃れ、家臣36人とともにこの地で仏道に励み、一門の菩提を弔ったと記されている。
【尼公屋敷】
妹沢の遺跡は渓流を挟んだ両側にあり、特に徳尼公が草庵を結んだ「尼公屋敷」には、樹齢700年、高さ35メートルの庄内地方最大のイチョウの木がある。この木は徳尼公を偲んで植えられたと伝えられている。
遺跡近くには泉水跡があり、かつて風鈴も発掘されたが現在は行方不明。また、屋敷近くには藤原氏の祖先を祀る社殿があり、徳尼公はここで仏道に励んでいたとされる。この場所からは、兄・秀衡が信仰していた羽黒山がよく見える。
明治30年に地元の秋庭熊蔵氏が「妹沢神社」を建立し、酒田の三十六人衆の子孫や本間家の当主も祭事に関わったとされる。しかし、維持が困難となり、昭和47年頃に解体され、工藤沢の「山神社」に合祀された。解体時には泉流寺からの寄進者札も見つかり、泉流寺が妹沢神社を資金援助していたことがうかがえる。
【経塚】
妹沢の社殿跡付近の草むらには目立たない経塚があり、対岸の釈迦堂平にも存在する。この経塚からは、3センチほどの小石に墨で経文を書いた「経石」が発掘された。経石には一文字または梵字が墨書されており、土中に埋まっていたため墨色は比較的濃いが、判読は困難である。
経塚は平安時代中期に経典保存のために造られたが、後に極楽往生や供養のための埋納に変化した。妹沢の経塚も供養目的と考えられる。
【釈迦堂平(坂田ヒラ)】
釈迦堂平(坂田ヒラ)は、妹沢の渓流を挟んだ北側にあり、急坂が多く、杉林に覆われた地域である。徳尼公に随行した三十六人の家臣がここに住み、釈迦如来を祀った堂を建てたことから、この名がついたとされる。
江戸時代の記録には、刀剣や仏像、風鈴などの出土が記されており、それらは釈迦堂平の経塚から発掘されたとされるが、どの塚からの出土かは特定されていない。出土品の記録は「立川町の文化財」にあるが、現物の所在は不明であり、茶釜の写真のみが過去の資料に残っている。
塚の周囲には並べられた川石があり、文字や記号のような刻みが見られるが、判別には専門家の調査が必要とされる。また、この地には土塁跡があり、羽黒山を望む好位置にあることから、家臣たちはここを拠点に羽黒山の動静を探っていたと考えられる。
以上が方寸に掲載された糸谷氏の妹沢についての記述を要約したものです。なお、糸谷氏は、方寸11号に平成9年に当時立川町文化財審議会の委員であった秋葉巽氏の経石発掘調査の記録、方寸12号には、藤原泰衡の息子であり、徳尼公にとっては孫にあたる萬壽丸についての記載もありますが、そちらは、別の機会に紹介したいと思います。
また、平成9年に発掘された経石は、酒田市立資料館(現酒田市文化資料館光丘文庫)に寄贈され展示されていましたが、現在、展示は行われていないようです。
4 羽黒山から酒田袖之浦へ
徳尼公は、羽黒山の妹沢で藤原一門の冥福を祈りながら三十六人衆に守られ、里の人たちにも慕われながら、静かに暮らしていました。しかし、鎌倉に幕府を開いた頼朝は戦勝後、各地の寺社、仏閣の建立を行い、建久4年(1193)に羽黒山にも黄金堂を建立することになり、鎌倉から武士が送られてくることを知り、それを恐れた徳尼公は、酒田の袖の裏(現在の宮野浦)に逃れ、庵室(泉流庵)を結んでそこで藤原一門の菩提を弔いながら、終の住みかとしたのでした。
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