徳尼公伝説①~奥州藤原氏の歴史と滅亡

今回から数回にわたり、酒田に伝わる徳尼公伝説を紹介します。第1回目は、徳尼公の出身一族である「奥州藤原氏」について紹介します。


奥州藤原氏の歴史と滅亡

奥州藤原氏は、前九年、後三年の役に勝利した藤原清衡が1083年に平泉に居住し、基衡、秀衡の3代にわたり、当時、陸奥の国、出羽の国と呼ばれていた東北地方一円を支配していたとされています。しかし、1189年に源頼朝が開いた鎌倉幕府により滅ぼされたことから、藤原氏側からの記録はほとんどなくなってしまいました。そのため、奥州藤原氏の歴史は、鎌倉幕府によって書かれた『吾妻鏡』や朝廷側に残された資料によってしか伺い知ることができません。これは世の常で、敗者の側の記録は歴史的には殆ど廃棄されてしまいます。


現代に伝わるところによれば、奥州藤原氏の時代は東北地方で砂金が産出し、これによって黄金文化が栄えました。中尊寺や金色堂、毛越寺、無量光院などはこの時代に建てられ、朝廷には砂金や馬、鷲の羽、絹などが献上され、逆に京都からきらびやかな仏教文化を持ち込みました。その影響力の大きさから、京都の公家たちはその仏教文化が失われるのではと嘆いたほどです。


三代藤原秀衡の時代、1180年頃から始まった源氏と平家の争いは源氏の勝利に終わります。この戦いで数々の功績を残した源義経は、頼朝に疎まれ、追われる立場となり、幼少時代に自分を育ててくれた秀衡を頼って平泉まで落ち延びてきました。秀衡は義経を快く受け入れ、鎌倉幕府からの要求も拒否し、義経を守ります。奥州藤原氏は源平合戦では中立の立場にありましたが、秀衡はやがて頼朝が奥州の富に目を付け、攻め込んでくる可能性があると考え、その際には義経を総大将にして戦うことを思い描いており、遺言にもその趣旨を残したそうです。


しかし、秀衡が亡くなった後、四代泰衡は鎌倉の要求に抗しきれず、義経を討ち取り、その首を鎌倉に送り、頼朝に恭順の意を表しました。それにもかかわらず、1189年、頼朝は義経をかくまったことを理由に平泉に攻め入ります。そして、京に匹敵するかそれ以上の文化を誇ったと言われる奥州藤原氏は滅ぼされてしまいました。


その戦乱の最中、藤原秀衡の妹である徳の前、あるいは後室(注:身分の高い人の後妻、あるいは未亡人を指す言葉)の泉の方といわれる女性が36人の従者に護られて、落ち延びたという伝説が伝わっているのです。

▲平泉 中尊寺

▲平泉 毛越寺

徳尼公と酒田三十六人衆

このホームページは、酒田に伝わる徳尼公伝説と、江戸時代に廻船問屋として地元の経済を発展させた酒田三十六人衆について、現在の活動と合わせて紹介するものです。

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