酒田まつり(山王祭り)の歴史
酒田では、産土神(うぶすながみ:土地の守護神)として上日枝神社(かみひえじんじゃ)と下日枝神社(しもひえじんじゃ)の二つの神社を祭っています。双方とも、酒田のルーツである宮野浦の日枝神社から勧請されたと伝えられています。
日枝神社という名称は、明治時代に入り神仏分離令が発令されてからの名称です。それ以前は、上日枝神社は上の山王社、下日枝神社は下の山王権現社と呼ばれていました。前者は武士が支配した東禅寺城下の内町組・米屋町組の鎮守で、後者は商人が自分たちで運営した酒田町組の鎮守でした。
祭りは、慶長14年(1609年)から陰暦4月の「中の申」の日に行われていました。明治以降は、太陽暦の採用により、毎年5月20日を祭礼日としています。
現在は、上・下神社の大祭を一緒に行っていますが、以前は別々に行われていました。正保3年(1646年)、当時の町奉行が二つの祭りを一つの大祭にまとめ、それをそれぞれの町の有力者が頭屋(とうや)として執り行うようになりました。
祭りには莫大なお金がかかりますが、頭屋を受け持つということは、町の実力者として認められることでもありました。町奉行所に従者を引き連れて式台の儀を受けることは、当時の身分制度の中では大変名誉なことであったと思われます。
このように、祭りは江戸時代には町の富裕層によって執り行われていましたが、明治維新後にはそうした風潮はなくなり、明治13年(1880年)からは氏子である各町内会が持ち回りで祭りを行うようになったのが現在まで続いています。
そしてもともと山王祭りと呼ばれていたこの祭りは、酒田市が酒田大火(昭和51年)からの復興宣言をした昭和54年に、市民全体のお祭りにするという願いを込めて、酒田まつりと呼ばれるようになりました。
▲かつての山王祭りの賑わい
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